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自ら追求し、自ら表現する子どもを育てる 

研究報告PRESENTATION

教材解釈実践ゼミ 1 どのように教材に向かうのか 
                              「やくそく」(光村図書 一年上)

今の教育現場では「教材解釈」という言葉をあまり使わなくなりました。知らない教師も多くいます。しかし授業は全て教材解釈からこそ生み出され、授業の成否も教材解釈にかかっています。それは普遍的であると思います。
 斎藤喜博先生が言われたように、教材は文化遺産です。その文化遺産にどのような価値があり何を学ぶことができるのか、教師は前もって見つけておく必要があります。それが教材を解釈するということです。教師によって教材解釈で見つけるものが違えば、当然子どもの学ぶものにも差が出てきます。教師がつまらないものしか見つけられなければ、子どももつまらないものしか得ることができません。逆に教師が思いもよらないぐらいの深い内容を見つけておけば、授業はドラマティックなものになり子どもも目を輝かせるでしょう。だからこそ教師の教材解釈力が問われるのです。  私を含め、授業研究の会の仲間は、宮坂義彦先生から徹底して教材解釈を学びました。しかし教材解釈は簡単ではありません。表面上の読みとりに終始してしまったり、勝手な空想に走ってしまったりして、授業づくりの根本から苦しんでいるのが現状です。宮坂先生が他界された今、私たちだけで教材解釈に挑戦していかなければなりません。
  では、どのように教材に向かえば、教材解釈が深まるのでしょうか。みなさんはドラマを見られますね。例えば昨年「半沢直樹」が大ヒットしました。主人公の半沢直樹は次々に窮地に立たされますが、それを見事に突破していきます。毎週、視聴者はその展開にドキドキしながら楽しみにしていたはずです。小説を読む時も「誰が犯人なのかな?」「なぜこんなことになるの?」といろいろ思いを巡らせるでしょう。
 教材を読むときも同じ。「変だ」「おかしい」「なぜ?」と読み、それを解決していくことを楽しみたいところです。文学というものは、そもそも書き手が、「変だ」「おかしい」「なぜ?」と読み手を立ち止まらせる謎を、あらゆるところに仕掛けており、それを読み解くのが本来の楽しさです。作家の平野啓一郎も、作家が使った言葉や文などの仕掛けや工夫に疑問をもち、その疑問を考えることで作家の意図を探っていく読みの方法を提唱しています(『本の読み方 スロー・リーディングの実践』PHP新書)。この方法は、私たちが長年取り組んできた教材解釈の方法と正に一致しています。
 私たちは小学校教科書に載っている教材なら「変だ」「おかしい」「なぜ?」という気持ちをスルーするように、わかったつもりになって読み進めます。そしてだいたい理解できたと思うでしょう。いわゆる「自動的読み」ですね。スリルや高揚感をもつこともなく、無意識に整合性をつけて読んでしまっているのです。これは先ほどのドラマの見方や小説の読み方とは全く違います。
 それに考えてみてください。「自動的読み」で得られた理解は、子どもが読んだ理解とさほど差はないはずです。教師の理解と子どもの理解とに差がなければ指導は成立しません。それが「国語で何を教えたらいいのか分からない」という声になってしまうのでしょう。
 授業を成立させるために、授業を魅力あるものにするために、「自動的読み」から抜け出すことが前提ですね。「ここには当たり前のことは書かれていない」「あり得ないドラマが隠れている」という気持ちで教材に向かわなければならないのです。そして「変だ」「おかしい」「なぜ?」と、仕掛けをむさぼるように見つけて、読む手がかりにする必要があります。
 例えば「やくそく」(光村図書 一年上かざぐるま)という教材があります。その日初めて出会った三匹のあおむしが同じ木のはっぱを奪い合います。そしてついに〈あおむしたちは、おおげんか。〉になってしまうのですが、最後には〈「それならみんなでいこう。」さんびきのあおむしは、やくそくをしました。〉なり一件落着。読めば、なるほど、おおげんかをしていた三匹が仲良くなった話だと分かります。しかし「おおげんか」していた者同士が、あっという間に約束するまでの関係になるなんて普通には考え難いことです。ここにあり得ないことが存在するのです。なぜこんなことになったのでしょうか。そのあり得ないドラマは何なのでしょうか。気になりませんか? 気になったら、じっくり何度でも読み直す。それが教材解釈のスタートです。
 ところで〈「それならみんなでいこう。」 さんびきのあおむしは、やくそくをしました。〉も何か変だと思うのですが、みなさんはどうでしょう? 

教材解釈実践ゼミ2 勘どころ 
                       「やくそく」(光村図書 一年上)  

井上ひさしが、著書『本の運命』の中で「井上流本の読み方十箇条」を紹介しています。「その一」は「オッと思ったら赤鉛筆」です。  

ぼくの場合は本を読みながら、赤鉛筆かマーカーで面白いとか「オヤッ」と思ったところに、どんどん線を引いていきます。・・・・・・「これは自分が知らなかった」というところ、「この人はこれが言いたいのか」という勘どころ、とにかく読んでいるうちに気持ちがちょっとでも動けば、それを全部丁寧に、いや乱暴にでもいいんですが、とにかく印を付けておきます。・・・・・・ 

興味深いのは「勘どころ」ですね。つまり読むには「勘どころ」が大事。「ビビビッ」と勘が働いて、「オヤッ」と思うところや気になるところに線を引く。この方法は教材解釈には不可欠です。(私もやっています)
 前回「やくそく」(光村図書 一年上かざぐるま)という教材の話を始めました。赤鉛筆でまず線を引くなら、次の部分でしょうか。(これは、勘を働かせなくても「オヤッ」と思うところでもありますね)  

〔前半部分〕
   あおむしたちは、おおげんか。

〔後半部分〕   
   「きれいだね。からだが ちょうに かわったら、
    あそこまで とんで みたいな。」
   「わたしも あそこまで とんでみたい。」
   「それなら みんなでいこう。」
   さんびきのあおむしは、やくそくをしました。  

話の前半では単なる「けんか」ではなく「おおげんか」と表されるぐらいのこと(大げんかのイメージも大事!)をやっているのに、最後の場面で〈それなら みんなでいこう〉と言い出すように大きく変化しています。そこまで変わってしまうようなことは普通あり得ませんね。(「そんなこともあるさ・・・」と思ってしまえば、赤鉛筆は必要ありません) そのあり得ないことを引き起こす余程の出来事は何か。「それは〈きれいだね〉と感動したからでは・・・」という声が聞こえてきそうですが、慌てずに、少し視点を変えてみましょう。
 三匹のあおむしは何を「やくそく」したのでしょうか? それなら、みんなで いこうと書かれているから「みんなでいくこと」を約束したと思いますよね。でもここが「勘どころ!」
それなら、みんなで いこう〉は、一匹のあおむしが提案しただけで、他の二匹の返事はありません。約束は互いに同意して初めて成り立つことですから〈それなら、みんなで いこう〉が約束そのものではないのです。きっと提案の後に三匹が何かしらの話をまとめて約束したと考えられます。その内容は書かれていませんが、作者はあえて書かなかったのでしょうね。そこは読み手がイメージで埋めることを期待して。(その期待に応えましょう!)
 それなら」とはどういうことでしょうか。三匹がみんなが〈あそこまで とんで みたいな〉という願いをもったのなら、ということになりますね。でもこの願いはすぐには叶いません。そう、〈からだが ちょうに かわったら〉という条件付きです。ここがさらに「勘どころ!」
 教材の書き出しを見てみましょう。

   ある おおきな 木に、いっぴきの あおむしがいました。あおむしは まいにち 木の はを たべて、からだが ちょうに かわる ひを まっていました。 

あおむしたちが大げんかをするほど争ってまで木の葉を食べていたのは早くちょうに変わるためだと分かります。きっと三匹にはそれぞれ「ちょうに変わったら、こうしたい、ああしたい」という願いがあったと想像できます。ところが、その願いが一瞬にして〈からだが ちょうに かわったら、あそこまで とんで みたいな〉に変わってしまった。しかも三匹ともが同じように。これこそ大事件! いや奇跡! (書き出しも、最後の場面の布石になっているのですね)
 ようやく、大げんかをしていた三匹が仲良くなった余程の出来事が見えてきましたね。〈きれいだね〉と感動してしまうくらいの場所の存在に出会ったことは間違いなのですが、それだけでは不十分です。〈きれいだね〉の感動は、一瞬にして三匹に同じ願いをもたせてしまうぐらいのものだったのですから、その「余程感」を深めてこそ見えてきます。イメージしてください。
 そしてもう一つ。約束の内容ですが、「みんなでいく」ためには絶対に守らなければならないことがあります。それが約束の内容につながります。ここはみなさんの「勘どころ」を頼りに探ってみてください。
 「勘どころ」と言っても、全くの「当てずっぽう」ではなく、教材の言葉や文の情報から得られる「勘どころ」ですから、強力な武器です。「勘どころ」は馬鹿にできませんね。